2013年6月27日 (木)

現代人の間違い

自由だからと言って、何をやっても許されるのだと勘違いしている人がいるようです。

はっきりと言います。そんなわけがありません。

たとえば、自分の住んでいる居場所や自分や自分の家族の情報を見ず知らずの人間に本などとしてさらされ、その人間に出版差し止めなどを要求したら、「表現の自由の侵害だ。」と言われるのは、どうでしょうか?これは、正しいと思いますか?

きっと、こう答える方が大半だと思います。「プライバシーの侵害になるから、当然やめさせるべきだ」と。このさらされたことによる被害は、想像を絶するものです。

ここで、わかる人はいるでしょうが、表現の自由というのは、限りがあるのだということを。なぜ、無限にしないのかと言いますと、様々な人の拒否権(たとえば、表現をしないでと言える権利、表現をしない権利、不快な目にあっても救済される権利)が存在するからです。

もし、すべての自由を無限してしまったらどうなるでしょうか?簡単に結論を言いますと、権利も何も保障されないのです。要は、某世紀末漫画を想像してみてください。野放図、無法地帯です。自分の首を絞めるだけです。

だから、自由は制約なくして、成立しないのです。自由とは、劇薬です。制約は一種の中和剤です。

ある人の考えと合わせれば、注意をした人間は、みんな自由を侵害する人間ですか?公園で、よその子供が人にいたずらをして、それを叱ったら、その親が「子供の自由を侵害するな!」と妙な言いがかりをつけることと同じですよ?そういう自由は、ただの利己主義の塊です。

お後がよろしいようで。

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2013年6月26日 (水)

ユーモアとは

私は、ユーモアとは、個人を傷つけないものだと思っています。というより、モットーとしています。

たとえ、ブラックであっても、特定個人を傷つけないように気を遣います。実際の事件を題材にする場合でも、かなり改変を加えることが多いと思います(作者が言わないと分からないくらい、原型がとどまっていない)。綾小路きみまろさんのブラックユーモアを見ると分かりますね。また、大学のある教師の方が、ユーモアは人を幸せにするものだとおっしゃっていました。

このようなモットーに至ったきっかけは、高校時代に、生徒会役員として行った、犯罪被害者の遺族会の講演会で、遺族の方の話を聞いたことです。事件による被害だけでなく、マスコミによる被害や、それによるものかもしれませんが、関係のない人までが、事件について奇異な目で見てしまうという被害があることを知らされました。第三者が、自分にとって面白いと思っても、被害者の方やその遺族の方をもしかしたら傷つけるのではないかと考えない限り、彼らに対する補償は永遠に成り立たないと思います。要するに、勝手で軽はずみな表現が、差別を引き起こしかねないのです。

表現の自由の前に、公共の福祉が存在することを熟知するべきです。自分さえよければという考えは、よした方がいいです。見る人がいないからいいだろうなどというのは、はっきり言って、言い訳です。だから、何をしてもいいなんてことはありません。意外と、ネットはいろいろな人が見ているものです。

お後がよろしいようで。

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